星薬科大学 星薬同窓会報 2021年2月25日号


「見えないものを見る」
創作の姿勢を分析化学のなかに学んだ

西中千人(昭和62年度卒)


京都・東山、南禅寺から銀閣寺を結ぶ「哲学の道」の途中、東山三十六峰の一つに数えられる善気山の麓に法然院というお寺があります。鎌倉時代の初め、浄土宗の開祖・法然上人が建てた草庵がその始まりで、現在のお寺の姿は江戸時代初期、1680(延宝8)年に再興されたものです。その参道に、ガラスのオブジェを中心にしたインスタレーション・アート《ガラス枯山水『つながる』》を設置・奉納させてもらったのは、2019年のことです。
 茅葺の山門に向かう参道に、ガラスのオブジェや苔、砂などを配置し、水を用いずに山水の風景を表現した枯山水は、全長40m。木々の間から参道に差し込む陽光を浴びたガラスはゆらゆらと光を湛え、永遠に枯れることのない湧水を庭に出現させました。
 砂から作り出されるガラスは、1400℃の窯のなかで真っ赤に煮えたぎったマグマのような状態から誕生します。一度形になったガラスは、再び高温に戻せばドロドロのマグマに戻り、また別の形になる。同じように土から作り出す陶器は、形作られた後に元の粘土に戻りません。大地から生まれたガラスが、生まれてはもとに戻って再生を繰り返す。じつは、《ガラス枯山水「つながる」》のガラスのオブジェは、すべて使用済みのガラスからできています。つまりこの庭園は、人間の命を表現するメタファーでもあるのです。


技法ではなく深い精神性の表現を求めたい

《ガラス枯山水「つながる」》を奉納する以前、2017年に3週間、東京の日本橋髙島屋1階の正面ホールに《一瞬に煌めく永遠~ガラスアートの瞑想空間へ》と題したインスタレーション・アートを展示しました。リサイクルしたガラスのオブジェを使った作品で、SDGsやサステナブルなアートとして評価をしていただきました。
 一方で、私自身としては、もっと精神性の深い表現をしたいと考えるきっかけにもなりました。循環可能な資源であるガラスを使うことは、あくまで人間の命や、それをも内包する自己の宇宙観を表現するための方法であって、目的ではありません。ガラスの枯山水とともに取り組んでいる、複数のガラス作品を壊した破片を継いで新しい作品にする「呼継」も、再生をテーマにしていますが「目に見えない自分の中にある深層心理を投影する」という根本の創作動機に基づいたもの。より深い精神性の表現を考えたときに、実際の庭をインスタレーションの空間にしたいと思うようになったのは、私にとっては当然の流れでした。


「見えないものを見る」分析化学に学んだ姿勢

「目に見えない深層心理を投影する」というアートに対する姿勢は、じつは星薬科大学で学んだ分析化学の手法によること大きいのではないかと思っています。分析化学は、たとえば、ある薬草の作用について、どんな成分がどのように効果を与えるのかということを分析していく学問。それは世の中の共通認識、音楽でいえば楽譜を作っていくようなことです。
 そんななかで当時の担当教授だった今枝一男先生は、「薬学はいろんな学問をつなぐ」とおっしゃられていました。分析化学は、見えないものを見る、真実を追求する手法である。それはまさに現在の私が目指すアートの本質と同じもののようです。
 そういった意味では、《ガラス枯山水「つながる」》の設置も「人間の命」という「見えないものを見る」ためのあくまで手法でした。
 ガラス枯山水の奉納を提案した私に、「西中さんの思うようにやってください」という一言でお赦しくださったのが法然院の梶田真章貫主です。奉納が決まり構想を練っていた2018年、残念なことに京都を襲った台風21号によって、法然院は参道、墓地、庭園は倒木で大きな被害を受けられました。
 被災を免れた山門から参道を見つめていると、「再生」という使命のようなものを感じるようにもなりました。草木や虫、空気や光、生命活動の有無の境目や裏も表もない空間を感じながら創作した期間は、自分自身のコンフォートゾーンを強く揺さぶる貴重な体験でした。
 その宇宙観を表現したコンセプトムービーが、ドイツ・ハンブルクの現代メディアコンペティション「ワールド・メディア・フェスティバル2020」で、32カ国795の応募の中から部門最高賞の金賞を受賞できたのは本当にうれしいことです。


最後は素材が決める
ガラスの声が聞こえる

《ガラス枯山水「つながる」》を制作しながら、「ガラス」という素材は「光」そのものであることをつくづく感じていました。そして同時に340年という法然院の長い歴史に参加させていただくなかで、ガラスに対する接し方が変わってきたのは、自分にとって意外なことでした。
 それまでの私といえば「俺の色、俺の形」という意識が強く、ガラスという自然から生まれたものを人間の技術で120%服従させてやるというような気概をもって制作をしていたように感じます。もちろん、それは深層意識のようなもので、本人としては、「作為のない形」という陶磁史の研究者である林屋晴三先生からいただいた言葉を大切に、力を入れない創作を意識していたほどです。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ、長谷川等伯、マルセル・デュシャン。この3人は私にとって最も尊敬する真のアーティストです。ダ・ヴィンチは、アートだけでなく解剖学や力学、化学を学び真実を解き明かそうとした人。等伯は、苦しみを解き放ったことで自己のなかにある真実を表現しきった。そしてデュシャンは、作品は見る者が主役であるという社会的な真実を提示しモダンアートの扉を開けました。この3人に共通するのが、見えなかったことを見ようとする姿勢です。
 法然院にいると不思議と「場と素材のための形」を作りたいと思うようになりました。力を抜く。ガラスの造形でいえば「最後は素材が決める」というような、偶然できた曲がった形に対しても「そのゆらぎがきれいだね」と、曲がろうとする素材の声に従ってもっと曲げていくような方法をとることができるようになったのです。


30代の頃は今見える4割も見えてなかった

 30代の頃を思い浮かべると、その頃見えていたのは、今の4割くらいしかなかったように思います。そうすると私は、これからもっと見えるものが増えていくはずです。その時どんな創作をしているのか、想像がつきません。「もうどうでもいいよ」という境地に達しているかもしれませんし(笑)。それは進化なのかもしれないですし、むしろ捨てるから退化なのかもしれません。むしろ変化が止ったときが死です。
 これからどんなものが見えてくるか、私にもわかりません。それに対して自由にいられる環境で創作を続けることに変わりありません。